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東京地方裁判所 昭和52年(刑わ)3191号 判決

主文

被告人両名はいずれも無罪。

理由

第一検察官並びに被告人及び弁護人の主張

一本件公訴事実の要旨は、

被告人竹村一は、図書、雑誌の出版等を目的とする株式会社三一書房の代表取締役であり、同大島渚は、同会社発行にかかる単行本「愛のコリーダ」の著者であるが、被告人両名は、共謀のうえ、

(一)  別紙一覧表記載のとおり、昭和五一年六月四日ころから同年七月二七日ころまでの間、一九七回にわたり、東京都千代田区神田駿河台四丁目三番地日本出版販売株式会社ほか八か所において、同会社ほか一三名に対し、

(1)(イ) 巻頭部分「題字・絵」の次葉から、二枚目の裏

(ロ) 同四枚目の裏

(ハ) 同五枚目の表

(ニ) 同五枚目の裏

(ホ) 同六枚目の表

(ヘ) 同六枚目の裏

(ト) 同七枚目の表

(チ) 同七枚目の裏

(リ) 同八枚目の裏

(ヌ) 同九枚目の裏

(ル) 同一〇枚目の裏

(ヲ) 同一一枚目の表

に男女の性交や性戯の姿態を撮影したわいせつのカラー写真

及び

(2)(イ) 「愛のコリーダ(脚本)」部分の二五頁一行目から一七行目まで

(ロ) 同二九頁八行目から三一頁一〇行目まで

(ハ) 同四五頁一五行目から四六頁三行目まで

(ニ) 同四九頁二行目から五一頁一三行目まで

(ホ) 同五四頁二行目から一六行目まで

(ヘ) 同五五頁五行目から五六頁九行目まで

(ト) 同五七頁一行目から五八頁五行目まで

(チ) 同五八頁九行目から一四行目まで

(リ) 同七〇頁三行目から七二頁一四行目まで

(ヌ) 同九七頁二行目から九八頁一七行目まで

(ル) 同一〇二頁四行目から一〇四頁一行目まで

(ヲ) 同一二三頁一行目から一二行目まで

(ワ) 同一二三頁一五行目から一二四頁八行目まで

に男女の性交、性戯の場面等を露骨に記述したわいせつの文章を

それぞれ掲載した単行本「愛のコリーダ」合計約一万二五二四冊を代金合計約一七七八万五二〇〇円で売渡し、

(二)  販売の目的をもつて、同年七月二八日、同区神田駿河台二丁目九番地所在の株式会社三一書房において、前記わいせつのカラー写真及びわいせつの文章を掲載した単行本「愛のコリーダ」合計四七三冊を所持し、

もつて、わいせつの文書、図画を販売するとともに販売の目的をもつて所持したものである。

というにあり、検察官は、被告人の右各所為はいずれも刑法六〇条、一七五条前段、後段に該当する旨主張する。

二(一)  被告人両名及びその弁護人は、

(1) 刑法一七五条は表現の自由を保障する憲法二一条に違反する

(2) 刑法一七五条所定のわいせつの概念はあいまい、不明確であつて、同条は憲法三一条に違反する

(3) 本件単行本は刑法一七五条所定のわいせつの文書、図画にあたらない

旨論じ、以上の各点を理由として、被告人両名に対しいずれも無罪の判決を言渡すべきであると主張する。

(二)  被告人大島の弁護人は、さらに、

(1) 本件公訴提起は、被告人両名をことさら差別的に処罰しようとする目的で、検察官の訴追裁量権を濫用し、不公平から恣意的になされたものであるから、被告人らに対し公訴棄却の判決を言渡すべきである

(2) 本件捜査に当り、捜査当局は、市場に流通していた本件単行本をすべて押収するなどの措置をとつたが、かかる措置は、実質上憲法二一条一項の禁止する検閲にあたり、許されないところであつて、捜査当局によるかかる違法な活動を防止するためにも、右のような押収手続等にもとづいてなされた本件公訴提起の効力はこれを否定すべきものといわなければならず、したがつて、被告人らに対し公訴棄却の判決を言渡すべきである

(3) 被告人大島には、本件カラー写真の内容及び本件単行本のわいせつ性に関する認識がなく、結局犯罪の故意がなかつたというべきであるから、この点からも同被告人は無罪である

(4) 被告人両名間に犯罪の共謀がなされたことはない。

旨をも主張する。

第二本件単行本のわいせつ性に関する論点をのぞき、当裁判所の認定した事実

本件にあらわれた全証拠、ことに検察官請求の各証拠によると、以下の事実を認めることができる。

一被告人竹村は、昭和二〇年以降三一書房(同二四年株式会社となる)を経営して出版を営んでいる者、被告人大島は、映画監督で、昭和四七年九月ころ、フランスの法人で映画製作等を目的とするアルゴス・フイルムの経営者アナトール・ドーマンから合作映画製作の申込を受けてこれを承諾、いわゆる阿部定事件を右合作映画の題材とすることに合意し、同五〇年七月、その脚本として、「愛のコリーダ」と題するシナリオ第一稿(後記のとおり、本件単行本に「愛のコリーダ」という表題で掲載されているのと同じもの)を書きあげた。合作映画「愛のコリーダ」の撮影は、同年一一、一二月、右シナリオにもとづき、被告人大島の監督のもと、大映映画株式会社京都撮影所で行われたが、その際、宣伝用スチール写真の撮影には右大映映画株式会社に所属していたスチールカメラマンである小山田輝男が当ることとなり、小山田は、いずれも、監督である被告人大島の立会いのうえで、映画撮影のための各場面本番撮影前のリハーサル中に撮影したり、本番撮影終了後の機会に出演者らがとくに演技姿勢をとつたところを撮影したりし、こうして撮影されたスチール写真は、未現像のまま株式会社フランス映画社を経て、フランスのアルゴス・フイルムに送られ、そこで現像、完成された(右映画のフイルム自体もまた未現像のままアルゴス・フイルムに送られて現像され、同社の手で映画として完成された。)。

二被告人竹村は、被告人大島が映画「愛のコリーダ」を製作したことを知つて、そのシナリオを単行本として三一書房から出版することを計画し、同五一年二、三月ころ、被告人大島にその旨提案して了解を得、同被告人から前記シナリオ「愛のコリーダ」をタイプ印刷したもの一部の交付を受け、さらに、そのころ被告人大島に対し単行本に右シナリオとあわせて掲載するのに適当な著作を寄せることと、スチール写真の取寄方の手配を依頼し、その了解を得た。そこで、被告人大島は、「体験的ポルノ映画論」と題するものほか数編の原稿を被告人竹村に交付し、また、同年三月ころ、前記フランス映画社社長柴田駿に対し、右のような単行本出版の計画があることを告げたうえ、これに掲載すべきスチール写真をアルゴス・フイルムから三一書房に送付するようにとりはからつてもらいたい旨要請したので、柴田は、右要請をうけて、そのころドーマンに右の趣旨を伝え、ドーマンも、その旨了解して、映画「愛のコリーダ」のスチール写真のうち約六〇葉(カラーキヤビネ版)を三一書房あて郵送し、右スチール写真は、同年四月ころ、同社に配達された。

こうして、同年三月から五月にかけ、前記のシナリオ等原稿やスチール写真をもとに、三一書房で本件単行本「愛のコリーダ」の編集、校正等の作業が行われたが、その作業は、主として被告人竹村が直接これを担当し(被告人大島も、著者として、本文部分の第一校の校正を行つた。)、また、被告人竹村は、送付されてきた前記スチール写真の中から、口絵に使用するものとして二四葉(昭和五三年押第三四一号の一三の一ないし二四)を選択したうえ、そのトリミング、修整等についても自ら指示を与えた。その後、印刷、製本等を経て、巻頭の題字・絵につづいてカラー写真二四葉、次いで「愛のコリーダ」脚本、そのあとに前記各論文等を収めた構成の本件単行本を完成し、同年六月上旬、第一刷分として四〇〇五冊、同月中旬、第二刷分として六〇〇〇冊、同月下旬、第三刷分として三〇〇〇冊、合計一万三〇〇五冊ができあがり、なお、同月上旬、右第一刷分の中から一〇冊が、著者に対する献本として、三一書房から被告人大島に届けられたので、そのころ、被告人大島も、本件単行本に掲載されているスチール写真の内容を確定的に了知するにいたつた。

三本件単行本は、書籍取次店への委託販売又は注文販売等の方法にしたがい、三一書房によつて販売されたが、右販売の年月日、場所、相手方、数量、代金は、別紙一覧表中第一八八番の欄の事実につき証明不十分であるのでこれを除くほか、同表記載のとおりである。したがつて、本件単行本の販売回数は証拠上、一九六回、販売数は合計約一万二五二三冊、代金は合計約一七七八万三八六〇円と認められる(別紙一覧表中第一八八番の欄記載の販売について検討するに、その証拠とされた三一書房の配本控〔同押号の一二〕には、昭和五一年七月二三日、三一書房が模索舎に対して定価二〇〇〇円の単行本一冊を売渡したことを推認させる記載があり、また、このころ、三一書房発行の定価二〇〇〇円の単行本としては、本件「愛のコリーダ」が多く市場に流通していたこともうかがわれるのであるが、右単行本が本件の「愛のコリーダ」であるのか否かについて、右配本控には何ら記載するところがないし、他に、買い受けた者による説明等この点を証明する証拠も全く存しない以上、同欄記載の販売の事実を認めるには、なお合理的な疑いをいれる余地があるというべきである。)。

第三刑法一七五条にいう「わいせつの文書、図画」の意義について

一(一)  最高裁判所は刑法一七五条にいう「わいせつ」の意義につき、文書及び図画に関して「徒らに性慾を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」と定義している(昭和二六年五月一〇日第一小法廷判決・集五巻六号一〇二六頁、同三二年三月一三日大法廷判決・集一一巻三号九九七頁、同四四年一〇月一五日大法廷判決・集二三巻一〇号一二三九頁等。なお、文書、図画以外の「其の他の物」に関しては、徒らに性慾を刺激・興奮せしむべき物品のほか、性慾を「満足せしむべき」物品が含まれる。同三四年一〇月二九日第一小法廷決定・集一三巻一一号三〇六二頁。)。

本件単行本中のカラー写真は同条にいう図画に、脚本部分は同条にいう文書に各該当すると解せられるが、当裁判所は、その文書、図画に関する「わいせつ」の一般的意義については、右最高裁判所判例の定義するところに則るのが相当であると考える。

(二)  ところで、具体的な文書、図画の事案に対し刑法一七五条を適用し、これが「わいせつ」物に当るか否かを判断するためには、なお、右の最高裁の定義に即しつつ、よりこれを具体化した判断基準を設定することが有用である。当裁判所は、この観点から、文書、図画がわいせつと評価されるためには、

(1)  当該文書・図画中に、過度に性慾を興奮、刺激させるに足る煽情的な手法によつて、性器、性交ないし性戯に関する露骨、詳細、かつ、具体的な描写(性表現)がなされていること

(2)  右のような描写が存在することにより、その文書、図画が全体として、好色的興味をそそるもので普通人(通常の社会生活を営み、当該社会における常識をわきまえた人々。以下同じ)の性的羞恥心を害する程度に卑わいであると評価されるものであること

の二点が肯定されることを要し、右(1)(2)の各要件の存在(性表現の程度)を判定するには、右普通人の間に存する良識、すなわち社会通念に従うべきであると考える。(被告人大島の弁護人は本件単行本は大冊で定価も高く、その発行部数も少数であり、しかもその内容は映画のシナリオ等で一般的な興味を呼ぶようなものでないうえに、これを出版した三一書房は表現の自由の侵害に対する批判の意図をこめて本件の出版を行つたもので本件単行本をポルノグラフイーとして派手に宣伝したこともないなどの理由をあげ、その読者層は一定の知識と教養を備え、ある程度の経済的余裕があり、かつ映画「愛のコリーダ」や表現の自由の問題について一定の関心をもつ者に限定されている旨論じ、結局、右のように限定された範囲の者の間における通念を基準としてそのわいせつ性を判断すべきであると主張するが如くである。しかし本件各証拠によつて明らかなとおり、本件単行本は通常の書籍販売経路に乗つて一般書店店頭で販売され〔一部取次店から委託販売の取扱いを拒絶されることはあつた〕、販売方法等についても読者層を限定するため特段の配慮をすることはなかつたと認められ、また、本件単行本の販売部数は第二、三記載のとおり、約一万二五〇〇冊の多数にのぼり、右の冊数が前記の短期間に販売に供されていること、定価も一冊二、〇〇〇円であること、本件単行本の構成、内容等よりすると十分一般読者層の興味を惹きうるもので必らずしも弁護人主張のように読者層が限定される性質のものとは認められないこと等をも併わせ考えると、本件単行本の読者層が一定範囲に限定されていたとか、限定されるべき性格を有していたとかいうような事情はなかつたと考えられる。従つて弁護人の右主張は理由がなく、本件単行本のわいせつ性の判定は普通人を基準とした社会通念に従つて行われるべきである。)。

(三) ここにいう良識ないし社会通念は、事実として存在する個々人の意識の集合ないしその平均値を超える集団意識であり「性的道義観念」に通ずる規範的な概念と解すべきでみるが、かかる社会通念は時と所によつて異なり、同一の社会においても時の経過につれて変遷する性質のものであり、このことは多くの判例が一致して認めるところである。

ところで、近時、様々な文化領域、ことに科学、芸術等の分野において、それら諸価値の実現の過程で、性に関する事柄をより自覚的に採り上げ正面から関心の対象として追究する志向が強まり、従つて、性表現を伴う作品の数は増える傾向にあり、このこと自体については、右のような社会的諸価値の実現である以上、社会通念による評価においても基本的に容認されるべきところであるが、その一方、この種作品の輩出に伴い、科学的、芸術的価値や社会的有用性の有無にかかわりなく、多くの様式による性表現の程度が一般に時を追つて増進する趨勢にあることも明らかである。

すなわち、近時、我が国においてもテレビ、映画、単行本、雑誌、新聞紙等様々の媒体を通じ、映像、絵画、小説、記事その他の文章等の様式で、性に関する描写、叙述が大量に取り扱われ、その表現の程度も大胆、卒直化し、往時にはタブー視されたような性表現方法が公開流布され、漸次、その程度を高めつつあることは周知のところであり、弁護人の提出にかかり、立証事項「現代日本の性表現の実態」に関する資料として取り調べた各種書藉、新聞等のうち多数はその傾向を顕著に示すものである〈証拠・略〉。

かかる性表現の公開流布にさらされている状況下においては、その表現の受け手である国民―普通人―の多くの者が多かれ少かれこれに接触せざるを得ず、さすれば徐々にそれらの性表現に馴れ、従つて次第に右表現手法によつて性的刺激を受ける程度や興奮度も低くなり、好色的興味をかきたてられたり卑わい感を生ずることがより少くなつて行く傾向の生ずることは必然であり、ひいて、普通人の意識が旧時に比し、より卒直、大胆な性表現をも肯定して受け容れるように変化しつつあることは否定し得ないところである。

しかして右のように巷間流布されている性表現のうち多くのものが、捜査、訴追機関により、わいせつ文書、図画等としての処罰の対象に取り上げられることなく、流布するに任せられていることは弁護人提出証拠の前記書籍、新聞等によつて認められるところであるが、このいわば放任されている性表現物には、ほぼ共通した煽情性抑制の手法と表現の程度の限定努力がうかがえることからして、捜査機関等は単に個別的事案に即した事情の勘案により検挙、訴追を差し控えているというにとどまらず、流布する種々の性表現のうち表現の程度に一定の限度を画して処罰の対象から解放しているものと推認される。

すなわち、各種表現様式のうち、写真(映像の動きを伴う映画等はしばらく措く)その他の図画においては、性器及びその周辺を直接に示さず、あるいは性器及びその周辺の部分のみをぼかしたり、塗りつぶしたりしたうえ、その体位、姿勢によつて性交、性戯の状況を推測させ又は暗示するもの、小説その他の文書においては、性器の名称、状態や性交を直接に示す言葉をなるべく使わず、かつ、えん曲、比喩的な表現を主に用いつつ、性交や性戯に関する相当詳細な描写をするもの等は、それら表現の手法が著るしく露骨、煽情的でない限り、概ね、右放任の限度内にあるといつてよいであろう。

このような放任の状況は前記普通人の意識において漸次肯定され受け容られるに至つている性表現の程度を反映すると共に、その種性表現の程度が一般に性秩序や性風俗に対する脅威とは感ぜられなくなつたことを推測させるものと考えられる。

さて、以上のような性表現流布のもたらした普通人の意識の変化は、普通人の間に存する良識・社会通念にも影響を及ぼさざるを得ない。もとより、その場合、社会通念は前記のとおり集団意識であり規範的概念であるところ、右のような性表現流布によつて現時点までに普通人が到達した前記の「馴れ」「受容」及び捜査機関等による「放任」の程度を重要な資料としたうえで、一面、性表現による前記各種領域における社会的諸価値実現の要請をふまえ、他面、性表現が性に関する生活の秩序ないし健全な性風俗維持の要請に対して与える脅威の程度を測り、この両者の接点において、社会通念における性表現程度許容の目安を見出すのが妥当であると考える。

二弁護人は前記第一、二、(一)(1)(2)記載のとおり刑法一七五条が憲法二一条及び三一条に違反する旨主張するけれども、前記一に述べたような社会通念に則り、前記わいせつ評価の要件を充足すると認められる程度の性表現を規制することは、性に関する生活の秩序ないし健全な性風俗への侵害を防ぐ観点から表現の自由に対する公共の福祉による制限として十分の理由を有し、憲法二一条に違反するとはいえず、また前記最高裁判所判例の示す「わいせつ」の一般的意義が憲法三一条に違反するようなあいまいで不明確なものでないことはその定義自体を検討することによつて明らかなところである(以上、前記最高裁判所昭和三二年三月一三日大法廷判決参照)。

従つて弁護人の右違憲の主張はこれを採用しない。

第四本件単行本がわいせつの文書・図画に該当するかどうかについて

検察官は第一、一、(一)(1)記載のとおり、本件単行本のうち、カラー写真中の一二葉をわいせつの写真として、同(2)記載のとおり、脚本部分中の一三か所をわいせつの文章として、それぞれ指摘している(右指摘以外の部分は審判の対象として主張しない旨釈明している)のでそれらの部分を中心として個々的な検討をすすめることとする。

一カラー写真の部分について

(一)(1)  一般に、性交、性戯等を対象とした写真のうち、性器自体や性器の結合、接触状況等を直接に撮影したものがその性表現程度において前記社会通念上許容される限度を逸脱していることは明らかであると認められるが、かかる直接表現によらず、性器、性交、性戯等の状況を暗示し、ないし推測させるに止まるものについては、その表現方法の露骨、詳細、具体性ないし煽情性の程度如何を吟味することにより、社会通念許容の限度を超えているかどうかが判定されることとなる。そして、本件カラー写真はいずれも性器部分の状況(陰毛について検察官の主張があるが後述する)や性器結合、接触状況等を直接には示さず、性交、性戯等を男女の姿勢、身体のからみにより推測させないし暗示するに止まるのであるから、これらは、その表現程度につき評価検討を要する性質の部類に属する。

(2)  本件各写真は映画「愛のコリーダ」製作の際に、前記のとおり、各場面について、スチール写真専門家により、そのリハーサル中に撮影されたり、本番撮影終了後とくに演技姿勢をとつたところを撮影させたりしたものである。

従つて、映画における動く映像による性交、性戯場面の描写に比すれば(ぼかし等はなされていない半面)連続的な動きを伴つていない点において煽情性の程度は減殺されると認められ、また映画フイルムの一場面自体とも異なり、不自然さや体位姿勢のずれ等が生じやすいと考えられるが、各写真の性交場面にその影響と思われるものが諸処に認められるのであり、この点は、本件写真の煽情性の程度に対し、消極に作用する因子である。

(3) 前記巷間流布放任にかかる性表現写真、絵画の出版物と認められる弁護人提出証拠〈略〉のうち、性的場面を示す写真においては、男女の性器部分をことさら強調する角度から撮影したうえで局部付近をぬりつぶす等の方法で消除したと認められるもの、性交、性戯中の男女のからんだ姿態を両者の性器の見える位置から撮影したうえで局部付近を相当程度ぬりつぶす等して消除したと認められるものがかなり含まれている〈証拠・略〉。なお、右のうち、外国からの輸入雑誌五冊が含まれているが、その内容に徴し、関税当局も原則として右のようなぼかし、ぬりつぶし等消除の措置を講ずればこの程度の写真の輸入を認めているものと推認される。そして、かかる消除方法をほどこした類いの写真は、その消除の仕方、程度により一概にはいえないけれども、本件カラー写真のように性器関係部分を写さないで姿勢、体位のみにより性交、性戯を推認させるものに比較すると、かえつて、消除された性器周辺部分への関心を誘うことにより、その露骨さ、煽情性の程度はより大きく想像力を刺戟し、性的感情を喚起する度が強い場合も多いと認められる(ちなみに同押号の三八は前記第一、一、(1)(イ)(ハ)(チ)(リ)の本件各写真を二枚宛複写し、その各一枚について下半身の部分をことさらに黒く隠して構成したものであるが、複写のみのものと黒ぬりを施したものと対比すると黒ぬりを施した写真の方が、その部分に性器の映像がかくされているように想像させ、明らかに、より煽情的で性的感情をより強く刺戟するものといえる。なお後述。)。

右の点において、本件各写真は巷間流布放任されている性器関係部分に消除をほどこした類いの写真の多くのものよりも、その露骨さ、煽情性の程度において低いものであるということができる。

(二)  以上は、検察官指摘の本件カラー写真一二葉の全般に通ずる事項であるが、次にこれを個別的に検討することとする。

(1) 前記第一、一、(一)(1)(イ)ないし(ヲ)のカラー写真のうち(ロ)(ニ)(ホ)(リ)(ヌ)(ル)は、男女の抱擁や身体のからみを写し、それらの姿態によつて性交中であることを暗示すると認められるものであるが、中には男女の局部付近と思われる部分にずれが認められるものもあり、いずれも性器の結合を直ちには推測しがたい態様にあるというべく、それらの表情も淡白であり(ことに(リ)(ヌ)では男の表情に笑いがみえる)画面全体として静止した感じを与えるなどの点から、いずれも現に性交中ではなく、そのように見せる演技を行つているとの印象を与えるに止まつている。

そして前記(一)(3)に示したところからも明らかなように、仮りに右六葉の写真について、それぞれ下半身の一部付近をことさらに黒くつぶしたり、ぼかしたりする手法を施したとしたら、恐らく十分に前記捜査機関等の不検挙、放任の限度内に止まる程度のものと認められるところ、そのような写真においては、前記のような男女の局部付近のずれや性器を見えないようにしてある状況が消えてしまい、かえつて、性器の存在、その結合を強調して意識させられることとなり、性的感情を刺戟する度合いがより高くなるものと考えられる。これらの諸点に照らし、右六葉の写真は、性交の情景として迫真性の程度が高くなく、性的刺戟、煽情性の程度もさほど高くない(流布放任されている同種のものに比較してもその程度は低い)というべきである。

(2) (ハ)(ヘ)の写真は、坐位の男のひざの上に女が乗つて抱き合い、性交を推測させる姿態を示した情景の描写であるが、(ハ)ではその描写部分の画面全体に占める割合はかなり小さく、(ヘ)は相当遠くからの撮影のため、なおその割合は小さく、(ヘ)の男女はともに着衣をつけていて、下半身は脚部が見えるにすぎない。いずれも身体のからみの程度からみていちじるしく煽情的な手法で性交場面を描写したものとはいえない(この点は(1)と同じく局部付近をぬりつぶす等した場合と比較すればより明らかである。)。

(3) (ト)(ヲ)はいずれも男の下腹部付近に女が顔をうずめ、性器接吻をしていることが推測できる情景を写したものであり、(ヲ)では、右男女の周囲に三名の裸の女性がからむなどしているところも写つているが、(ト)の男は、静かな、深刻にさえ見える表情をしているうえ、これと相まち、女の姿勢の与える印象も性器接吻行為を如実にうかがわせる程ではなく性的刺戟性の程度は低い。これに対し、(ヲ)の男女は、性器接吻等の性戯をしていることが十分窺われる姿態を示しているが両名とも着衣をつけており、また周囲の三名の女性の裸体はほんの一部が見えているだけで何をしているのかも明らかではなく、すぐ傍らで老人がうかれて踊つている姿も写つていて、性戯の情景がいちじるしく煽情的な手法で描かれているということはできない。

(4) (イ)は男女が脚をからませ向い合つて坐つている写真であるが、女は手に鋏を持つているうえ、両者の表情から、二人が何事か言い合つている場面のようにも見受けられるのであつて、写真自体から性戯を描いたものとは必ずしも受け取れない。性交の前後の状態であることは暗示されているが、さしたる煽情性はない。(チ)は仰臥している男の腹の上に全裸の女がまたがり、男の頸部を両手で締めようとしている姿勢が写つており、性戯の一場面を暗示するものともいえるけれども、この写真自体からではその点が必ずしも明白ではなく、またその性的刺戟の程度は高いものではない。なお検察官は(イ)には男の、(チ)には女の陰毛がそれぞれ写つている旨主張しているが、いずれも当該部分にとくに注目して初めてそれかもしれないもの(いずれも陰影であるのか、陰毛であるのか必ずしも明らかではない)を看取しうるという程度であつて、とくに問題とするには当らない。

(5) このように見てくると(イ)ないし(ヲ)のカラー写真は、いずれもその性描写自体に即した検討と流布放任にかかる写真、絵画との比較考察により、その性表現程度の露骨、詳細、具体性ないし煽情性の程度が現時の普通人の受容する範囲内であると認められ、さらに性的秩序ないし性風俗に対して与える脅威の観点を考慮しても、社会通念上許容される範囲を超えていないということができる。

(三)  検察官主張の一二葉のカラー写真がいずれも社会通念許容の限度を超えていないと認められること前述のとおりであるが、このことは右一二葉を含む本件カラー写真二四葉全部を通観しその全体から受ける影響を考慮に入れてもその結論を異にしない。すなわち、右二四葉の相当部分(一七葉程度)が性交、性戯場面の描写であるが、その配列の仕方にはとくだんの意味を認め得ず、これを通観しても右のような性表現写真連続による印象から個個の場面の性的煽情性の程度が増幅されて社会通念許容の限度を超えるに至るような影響を受けることはないものと認められる。

二脚本部分について

(一)(1)  本件脚本部分は、前記のとおり映画「愛のコリーダ」のシナリオであつて、いわゆる阿部定事件に題材を求め、専ら吉蔵と定なる男女の性愛を中心のテーマとしその極限としての死・男性性器の切断に至るまでを描いたものであるため、脚本内容の大部分は性交、性戯の情景の描写であり、その連続であるといつてよい。

ところで、かかる映画や小説等芸術の分野において性を対象として取扱うこと、従つて、性交、性戯等の場面を描写の対象とすること自体が基本的に容認されるべきことは既に述べたとおりであるから、本件脚本の内容が性描写の連続であることは刑法上非難されるべきことではない。要は、その性表現の方法であり、性表現の程度であつて、それが社会通念上許容される限度を超えるかどうかの評価がここでの課題である。

(2)  本件脚本部分は、前記のとおり映画「愛のコリーダ」のシナリオでその第一稿をそのまま上梓したものと認められる。

そしてこれがわいせつ文書に当るかどうかの判断においては右脚本の形で叙述されている文章そのものの性表現が評価の対象となるのであり、その評価は、右脚本に基づき、演出や俳優の演技等を媒介として創り出されるであろう映像の評価とは全く無関係に行われなければならない。

すなわち、本件脚本には性器や性交や性戯の各場面を直截、端的に指示する文章が多く、これが演出等を介して映像となつたときには恐らくわいせつと評価される場合も多いと思われるが、脚本は、その文章自体においてわいせつ性の有無を問われているものである以上、ここに問題とすべきは脚本のその端的な性表現の文章自体に即しての煽情性の程度等の評価に他ならない。従つてこの評価の角度は小説等に対するわいせつ性の評価の場合と異なるところがないと考える。この点、検察官はシナリオの文章の特異性、独自性を指摘し、他の小説等における表現例と対比して露骨、詳細性等を比較することは無意味である旨主張するが失当であり、本件脚本における性表現程度の露骨、詳細性等の評価に際しては、前記流通放任されている文書の性表現との比較など、必要に応じ、小説等の文章と同列において検討するのが相当である。

(3)  本件脚本部分は、映画の脚本としての性質上、その記述内容につき映画製作関係者の演出、演技等専門的作業による映像への具体化を前提としており、さらに作者の脚本作法にも由来して性表現の個々の場面に関し、性交等に関する直截、簡潔、端的な演技指示等の表現が多い半面、情景描写や心理描写等は省略されていることが多くて、煽情的効果ではむしろ低い程度に止まると認められ、この点で、いわゆる官能小説等がえん曲な表現を多く用いつつ、性交、性戯の情況を詳細、具体的に描写してかえつて煽情的効果を高めているのと対照的であるともいえる。従つて、本件脚本各部分の性表現程度を評価するに際しては、性器、性交、性戯等を指示する片言、隻句のみに注目すべきでなく、ト書、台詞等をふくめた当該描写の一まとまりの文章について総合的に検討すべきである。

(二) 以下、検察官の指摘する前記第一、一、(一)(2)(イ)ないし(ワ)の一三か所の本件脚本部分について個々に検討を進める。

(1) 右の各文章はいずれも吉蔵と定の性交、性戯場面の描写であるが、そのうち、本件脚本の性表現の程度を特徴的に示すと思われる(イ)(ロ)(ニ)(リ)(ル)についてみるのに、男性性器を「男根」の呼称で表わし、性交、性戯の情景を比喩等、えん曲な表現によらず、直截な語句(例えばフエラチオ)を用い短い断片のような文章を重ねて描写しており、それなりに性的感情を刺戟する効果があり、また、右のうち(イ)(リ)(ル)では性交中の女性の発声が台詞に含まれ、行為を叙述するト書の部分の刺戟性を増幅しているということができよう。

しかしながら、それらの描写においては、性器、性交、性戯を表わす語句としては、一般に強く禁忌される程のものは用いない(例えば、女性性器については「性器」とのみ称する)等用語の面での抑制があるほか、性器の状態、性交、性戯の態様や周囲の情景、雰囲気等について詳細な説明を欠き、修飾の語句等をもほとんど使わず、簡潔で淡々とした客観的な叙述に止まつている。

また、前記女性の性交中の発声についても比較的短い文章で概ねその気持を表現するものに止まり、(イ)(リ)(ル)等の客観的叙述部分の煽情的効果をこれらの発声によつて、いちじるしく高めたとまでは認められない。

ところで弁護人提出証拠の前記書籍、新聞等のうち文章による性表現に関するもの〈証拠・略〉は、いずれも前記取締の観点から限度以下にあるとして放任流布されているものと認められるところ、それらの中には性器自体を直接の名称で表現することを避けるなどのえん曲な表現手法を多く使用しながら(性器の名称を直截に用いるものも散見される)、性交の体位や動き、性戯の姿態や態様、男女性器の状態、性交、性戯に関連する会話、それら行為中の音声、感覚、心理状態等を、本件脚本中の右五か所の文章と比較して格段に、より具体的、より詳細に記述し、その結果、読者の性的感情に訴える煽情的効果をより多く生ぜしめるような性描写の文章が多数存在することが認められる。

従つて、本件脚本中、前記(イ)(ロ)(ニ)(リ)(ル)の各文章は、その性表現に関する露骨、詳細、具体性の程度において、現に放任流布されている類いの文章に比し、まさつているとはいえず、その煽情的効果はむしろ低い程度にあるというべきである。

このように、(イ)(ロ)(ニ)(リ)(ル)の性描写における露骨、詳細、具体性の程度、ひいては煽情的効果の程度をそれら性表現内容自体に即して検討し、且つ、流布放任の文書とも比較して考察してみると、その直截な片言に問題はあるものの、総じて現時、普通人の受容する範囲内に止まると認められ、さらに性的秩序ないし性風俗に対して与える脅威の観点を考慮しても結局、社会通念上許容される範囲を超えてはいないということができる。

(2) つぎに本件脚本部分中(ハ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(ヌ)(ヲ)(ワ)の各文章も、性交、性戯の情景を(1)にみた部分と同様な手法で叙述するものであるが、これらを前記(イ)(ロ)(ニ)(リ)(ル)と比較すると、性交、性戯の露骨、詳細、具体性の程度、ひいてその煽情性の程度においていずれもかなり低いと認められる((ヲ)から(ワ)にかけては、一連の直截な語句の羅列が目につくが、(ヲ)は非現実的、幻想的な性交、性戯場面を示し、(ワ)は男性性器を切断する行為の描写で惨酷感を伴い、いずれにおいても煽情的効果はかえつて乏しい。)。

従つて、これら各文章部分についても前記(1)と同様の観点から検討して社会通念上許容される範囲を超えてはいないと判断するものである。

(3) 以上により、本件脚本部分のうち検察官指摘の一三か所の性表現の程度がいずれも社会通念により許容されている範囲を超えてはいないと判断した。このことは、右一三か所を含む本件脚本部分全体を通観し、その全体の脈絡からそれら各性表現に与える影響を考慮してもその結論に異なるところはない。

すなわち、脚本の大部分が吉蔵と定の性交、性戯場面の描写に費やされているが、これを通読した結果により検討しても、それらの描写の積重ねやストーリーの展開、構成の仕方により前記各場面の煽情的効果が増幅されて社会通念許容の限度を超えるに至るような影響をうけることはないものと認められる。

三既述のとおり、カラー写真部分、脚本部分、いずれの評価検討においてもそれぞれそのわいせつ性は否定されるべきものと考える。

ところで、本件単行本は、巻頭題字・絵の次にカラー写真二四葉を収録し、これにつづいて脚本部分が収められるという構成になつていることが認められ、読者は収録の順序に従つて読んだり、あるいは前後見直したりすることになると思われるが、そのような場合、カラー写真部分と脚本部分両者からうける性的刺戟が影響し合い複合してその程度を増強することの有無程度についても念の為検討しておく。

そこで、本件脚本部分とカラー写真部分の内容的な関連についてみると、カラー写真はそれぞれの脚本のある箇所に対応するものであることは推認されるが、写真のうち、具体的にどの特定箇所の情景に当るかということが一見明らかでないものもかなりあり、対応することが明らかな場合も本文の間にさし絵が挿入されている場合のような緊密さを以て読者に刺戟を与える底のものではなく、また、それとの内容的関連を考えながら両者を見比べるとしても相互の影響によつてその煽情性の程度が増幅され、社会通念許容の限度を超えるに至ることはないと認められる。

第五以上に検討したところにより、本件単行本中には、脚本部分及びカラー部分を通じ、社会通念に照し、過度に性慾を興奮、刺戟させるに足る煽情的手法により、性器、性交、性戯に関する露骨、詳細、具体的な描写がなされている(第三、一、(二)(1)の要件)とは認めることができない。

してみると、第三、一、(二)(2)による評価検討を加えるまでもなく本件単行本のわいせつ性は否定されるべきであると考える(第三、一、(二)(2)の点に関し、一、二付言すると、本件単行本のカラー写真、脚本部分の大部分は性描写の連続といつてよいが、その各場面も、これがすべて映画として動く映像化された場合は格別、本件写真、脚本にあらわれた限りでの性表現の程度は前記の限度に止まり、ストーリーは阿部定事件に題材を採り、一切の社会的拘束を排して性愛のみに生きる男女の性性活とその極限―死に至る性戯、性器の切断―を描いて、独自の主題を示しており、その主題の展開のためには性描写の連続も性表現の程度もそれなりの必然性があり、総合的な読後感によつても、本件単行本が全体として、社会通念に照し、単なる好色的興味のみに訴え、且つ、普通人の性的羞恥心を害する程度に卑わいであると評価されるものであると認めることができない。)。

以上により、検察官の主張する一二葉の写真、一三か所の文章を含む本件単行本は、刑法一七五条所定のわいせつの文書、図画にあたらず、被告人両名がこれを販売し、販売目的で所持した行為は罪とならないというべきである(なお、大島被告人の弁護人の第一、二(二)(1)(2)の公訴棄却の主張については、本件についての犯罪の成否は性表現の程度に関する評価基準如何に負うところが多く、この点につき検察官が本来起訴すべからざるものを差別的意図を以て起訴したとの事情は見出しえないから右(1)の主張は前提を欠き、押収手続等に違法があつてもただちにその事件の公訴提起が無効とされるべきものではないうえに本件押収手続に違法があつたとも認められないから右(2)の主張も理由がない。)。

従つて、刑訴法三三六条により被告人両名に対しては無罪の言渡をすべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

(岡田光了 永山忠彦 木口信之)

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